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2014年2月12日 (水)

『第12SS装甲師団の反撃』のヒストリカルノート

ジュノー。それが、このカナダ兵達がD-Dayに上陸するために割り当てられたノルマンディー地方の海岸につけられたコードネームでした。ジュノー海岸は長い砂浜ではあるものの、沖合には岩礁が広がっていました。一方、内陸には他のノルマンディー地方と同じように、平和時ならば多くの観光客を惹きつけるであろう、のどかな村々が点在していました。ところが、ここを大規模な侵攻部隊が目指し、その静穏を破ることになったのです。
この海岸では、サントーバン・シュル・メール(St-Aubin-sur-Mer)、ベルニエール・シュル・メール(Berni?res-sur-Mer)、クールスール(Courseulles)、グラーユ・シュル・メール(Graye-sur-Mer)の村が約4マイルにわたってドイツ軍の拠点となっていることが確認されており、最初の攻撃でこれらを全て無力化しなければなりませんでした。このあたりには唯一の大きな河川として、クールスールとグラーユ・シュル・メールの間の水路に注ぎ込んでいるスール(Seulles)川もありました。この地域は、豊富な銃器、トーチカ及びマシンガンの巣によってドイツ軍に厳重に防衛されており、これらの防御施設は上陸前の膨大な砲撃でも大きなダメージを受けずに、カナダ兵達に死の銃火を浴びせる準備を整えていたのです。
オーバーロード作戦の最初の段階であるネプチューン作戦のために、第3カナダ歩兵師団と第2カナダ機甲旅団の将兵達は何度も繰り返し訓練してきました。ネプチューン作戦は6月6日の深夜までに、このカナダ兵達を10マイルほど内陸へ送り込む4つのフェイズで構成された野心的な計画でした。
カナダ軍担当区域の攻撃計画によって、コードネーム「マイク」、「ナン」と呼称される海岸に2つの旅団の上陸が命令されていました。第7旅団には第8旅団の右側のマイクとナン・グリーンが割り当てられました【訳注:マイク海岸はさらに二分割されてグリーンとレッド、ナン海岸は三分割されてグリーン、ホワイト、レッドと呼称されており、第7旅団はそのうちのマイク海岸全体とナン海岸のグリーンを受け持ちました】。第7旅団には、師団全体の目標の中で最も重要な海岸が割り当てられていました。作戦開始から正午までに第7旅団は第1フェイズの目標を全て奪取しましたが、その損失は非常に大きいものでした。この日の終わりには、ロイヤル・ウィニペグ・ライフル連隊所属のC中隊は145名の定数に対して、たった1人の将校と26名の兵員しか残っていませんでした。レジーナ・ライフル連隊のD中隊は海岸へ到着するまでに機雷障害物で深刻な損害を被りました。生き残って海岸にたどり着き、戦闘行動を開始することができたのはわずか49名でした。この日の終わりには、第1軽騎兵連隊の2つのDD軽騎兵中隊も戦力を確保するために統合しました。
いくらかの増援は送られたものの、上陸地点が依然、敵の砲火に晒されていたため、ほんの少しが到着したにすぎませんでした。攻勢スピードを維持するために、攻撃部隊が兵力不足のまま、第2フェイズの「エルム(Elm)」が開始されました。「エルム」は、クルリー(Creully)とフォンテーヌ・アンリ(Fontaine-Henry)周辺に付けられたコードネームでした。カナダ・スコットランド連隊はクルリーに前進し、すでにゴールド海岸に上陸していたイギリス第50歩兵師団と手を繋ぎました。彼らはそこからロイヤル・ウィニペグ・ライフル連隊の支援を受けて、さらにカミリー(Camilly)を奪取しました。レジーナ・ライフル連隊は6月6日の20時までにフォンテーヌ・アンリの村を占領しました。それらの目標地点の中間にあったコロンビエ・シュル・スール(Colombiers-sur-Seulles)周辺の丘とルヴィエール(Reviers)橋は、真夜中までに占領されました。
隣接の第8旅団も数度、敵と遭遇して成功を収めた後、彼らには後方に残っていくつかのドイツ軍ポケットの激しい抵抗を一掃するという任務が与えられました。中でも特に重要であったのがドゥーヴル・ラ・デリヴランド(Douvres-la-D?livrande)で、そこはレーダーと通信局が238名のドイツ兵と第21装甲師団から送られた数両の装甲車両によって守られており、彼らは決して降伏しない覚悟だったのです。ノース・ショア(ニュー・ブリュンスウィック)連隊はそのレーダー基地を占拠するために6月6日の真夜中までにドゥーヴル・ラ・デリヴランドに到着し、クィーンズ・オウン・ライフル連隊はアニジー(Anisy)まで進出しました。第8旅団はその「エルム」の目標地点で統合され、第3フェイズの目的地であるカルピケ(Carpiquet)飛行場を、第9旅団が奪取するために通過していく道の下準備をすることになっていました。そこで第8旅団の役割は防御に変わり、カナダ軍区域の進入路を守って第3歩兵師団の予備になる予定でした。
6月7日の朝には、先へ進む両旅団(第7旅団と第9旅団)は予期されたドイツ軍の反撃も全くなく、前進できる状況が整っていると判断されました。第9旅団区域ではノース・ノヴァスコティア・ハイランダーズ連隊とシャーブルック・フュージリア連隊(第27機甲連隊)がビュロン(Buron)、オーティ(Authie)、フランクヴィル(Franqueville)を経由してカルピケ飛行場に向かって南へ移動し始めました。第7旅団には、ブレットヴィル・ロルギュイユーズ(Bretteville l'Orgueilleuse)とピュトー・アン・ベッサン(Putot-en-Bessin)へゆっくりと進み始める命令が出されました。これらが、カナダ第3歩兵師団のD-Day当日の第3フェイズの「オーク(Oak)」のコードネームで呼ばれる目標群でした。目に見える戦線は形成されておらず、状況は非常に流動的でした。そして、第12SS装甲師団が前日1000時に命令を受け取り、すでにこの区域に到着していることを彼らは全く知らなかったのです。第25SS装甲擲弾兵連隊の熟練した指揮官であるクルト・マイヤーと彼の戦闘集団は、連合軍を海へ追い落とすための来たるべき反撃の準備の最終段階にいました。カーン北西のアルデンヌ僧院(Abbaye d'Ardenne)に置かれていた前進観測哨戒所でマイヤーは素早く状況を把握すると、すぐに彼の全3個大隊を前方に配置しました。第Ⅰ大隊は右側面をカバーするためにエプロン(Epron)村とサン・コンテ(St-Contest)村の間に置き、イギリス第3歩兵師団に向かい合っている第21装甲師団の部隊に隣接させました。第Ⅱ大隊はサン・コンテとビュロンの間に置きました。第Ⅲ大隊は左側面のビュロン、オーティ及びカーン・バイユー街道の広い領域をカバーさせました。装甲擲弾兵達の背後では、大隊のⅣ号戦車が支援砲兵と共に位置につきました。
第9旅団の指揮官であるカニンガム准将は前進偵察部隊を送らずに、ノース・ノヴァスコティア連隊によって先導された戦闘集団を前進させ、旅団の残りと支援砲兵を近接して従わせていました。カナダ兵達は、自分達の移動がクルト・マイヤーによって近くから観察されていることに気づいていませんでした。多くの戦役に参加してきたベテランの親衛隊大佐であるマイヤーは、カナダ兵がオーティとビュロンの間に移動して広がりきってしまうまで待ってから、攻撃命令を下しました。激しい戦闘は20分も続かず、大打撃を受けたカナダ第9旅団はこの日の残りを戦いながら退却し、3~3.5マイルほど退却しました。そこで彼らは防御態勢を整えて陣地を構築しました。増援として来るはずの第26SS装甲擲弾兵連隊がどこにいるのかはよくわからないながらも、自身の左側面に依然として6マイルの隙間が存在していることを十分に認識していたマイヤーはカナダ兵を追うことはしませんでしたが、新たな地歩を獲得するために新しい位置に付くことにしました。第26連隊は依然、行軍中でしたが、それはまず第一に連合軍の航空阻止によって遅滞させられていたこと、第二にこれまでの演習でこの連隊に割り当てられていた行軍ルートが様々な連合軍部隊の位置について不確かであるために6月6日に変更されていたことからでした。
第26SS装甲擲弾兵連隊の到着が遅れたために、第7旅団は第9旅団と同じ運命に陥るのを免れました。6月7日の正午までに、第7旅団のロイヤル・ウィニペグ・ライフル連隊とレジーナ・ライフル連隊が、D-Dayの最後の目標を占領した最初の連合軍部隊となりました。この時、第26SS装甲擲弾兵連隊の先頭の部隊は、ノレイ・アン・ベッサン(Norrey-en-Bessin)にいた最も進出しているカナダ軍部隊から2マイル南にあるシュー(Cheux)周辺に到着し始めたところで、連隊の大部分がようやく到着してから夜間に小さな強行偵察が行われました。ドイツ軍は本来ならばカナダ軍に対して形勢を逆転させることができたはずだったのですが、第12SS装甲師団の各部隊間の連携の悪さのために実現されませんでした。この連携の問題の一部は、第7旅団の優れた通信妨害によって引き起こされたものでした。
連合軍を海へ追い落とすためにパンツァーレーアと第21装甲師団及び第12SS装甲師団がカーンに向かって移動し、6月6日早くにロンメルによって構想された作戦が実施される予定になっていました。第12SS装甲師団長のヴィット将軍にとってまず必要なことは、この大攻撃に必要な戦力を集結させるためにカーン・バイユー街道を確保することでした。最初の共同攻撃は6月7日1600時に予定されていましたが、前述したように、第12SS装甲師団はまだその地域まで移動できていませんでした。パンツァーレーアも依然として行軍中であり、これらが勢揃いするのは8日になるだろうと見られました。ヴィット将軍はドイツ軍の1個中隊がドゥーヴル・ラ・デリヴランドで依然抵抗を続けているという知らせを受け、自らの位置を前進させることを含めて計画を修正しました。
6月7日のカナダ第9旅団との最初の戦いは、若いSSの兵士達に上陸軍に対して勝利できるという大きな自信を抱かました。しかし、第9旅団とは異なり、第7旅団は計画された位置についており、どんな攻撃でも跳ね返す準備ができていました。第26SS装甲擲弾兵連隊は、移動中のカナダ軍を捕らえるのではなく、非常に強力に防衛された拠点に向かって前進しなければならなかったのです。
お膳立ては整っていました。第7旅団指揮官のフォスター准将は、向かってくるどんな敵にも射線が通るように自分の大隊を配置していました。ピュトー・アン・ベッサンに配置されていたロイヤル・ウィニペグ・ライフル連隊はル・メニル・パトリー(Le Mesnil-Patry)に向かって南に面し、ブルエ(Brouay)近くを通過する単線の鉄道線を守備していました。レジーナ・ライフル連隊の大部分はブレットヴィル・ロルギュイユーズにあり、線路を跨いだノレイ・アン・ベッサンにはC中隊、ブレットヴィル・ロルギュイユーズとノレイ・アン・ベッサンとの中間の線路に隣接したカルドンヴィル(Cardonville)農場にD中隊とブレン・キャリアー大隊が配置されました。カナダ・スコットランド連隊は予備としてセックヴィル・アン・ベッサン(Secqueville-en-Bessin)に配置されていました。フォスター准将は第9旅団に襲いかかった悲運について報告を受けると、フィエヴィル・ブレイ(Fierville-Bray)からケロン(Cairon)へとアーチ状に北から東へと広がる左側面をカバーするために、カナダ・スコットランド連隊のC中隊を対戦車自走砲部隊である第1軽騎兵連隊のC中隊及びキャメロン・ハイランダーズ・オブ・オタワ連隊(CHLO)の機関銃班1個と一緒に送り出しました。第7旅団司令部は、地理的にはこの森の中央にあるル・オー・ド・ブレットヴィル(Le Haut de Bretteville(hex 29.29))に置かれました。
6月8日の夜明け前、第26SS装甲擲弾兵連隊による攻撃が、その第Ⅰ大隊の3つの中隊によって始められました。彼らは、二方向からの攻撃によってノレイ・アン・ベッサンにいるレジーナ・ライフル連隊を包囲しようとしました。第1及び第3中隊はノレイ・アン・ベッサンに南東から接近し、第2中隊は西から向かって行きました。砲兵支援は使えませんでしたが、装甲部隊が安全に通過できるように村を越えたところにある鉄道線を確保しなければならなかったのです。カナダ兵達は第1及び第3中隊がサン・マンヴュー(St-Manvieu)とミュー(Mue)川の方向からやってくるのを発見し、即座に小火器と砲兵の射撃を叩き込みました。右翼の攻勢はノレイ・アン・ベッサンから約1000mのところで停止せざるを得ず、そこで彼らは午前中の残りの時間とどまりました。第2中隊は数両の装甲車両を伴っており、ル・メニル・パトリーの地域からよりも前進できました。ドイツ軍の擲弾兵達は苦戦の末、ノレイ・アン・ベッサンを突破し、鉄道の土手にたどりつきました。しかし、攻勢右翼の状況を見て、第2中隊はブレットヴィル・ロルギュイユーズとノレイ・アン・ベッサンの間の鉄道線のすぐ北のカルドンヴィルに退却することを決めました。
この攻撃は、第26SS装甲擲弾兵連隊の全域にわたって行われることになっていたのですが、第Ⅱ大隊はより慎重に移動中で、彼らの攻撃は3時間後の0600時まで始まりませんでした。ピュトー・アン・ベッサンが彼らの目標であり、その前進は砲兵の支援がないまま始められました。カナダ軍に猛砲撃を行うために絶対に必要な通信リンクをドイツ軍が確立する前に、鉄道を跨ぐ橋(hex 6.17)を巡って小戦闘が発生しました。しかし、この戦闘は勇敢な"Little Black Devils"(ロイヤル・ウィニペグ・ライフル連隊)によって失敗し、第Ⅱ大隊は再編成するために退却しました。2時間後、彼らの再攻撃は十分な砲兵支援の下に始まり、この砲撃は第Ⅱ大隊がピュトー・アン・ベッサン村にいたロイヤル・ウィニペグ・ライフル連隊のA、B、C中隊を蹂躙するのに大いに貢献することになりました。この戦闘でロイヤル・ウィニペグ・ライフル連隊は256名の死傷者(うち105名が戦死)という大損害を被ったため、大隊の残りは後退し、旅団予備とされました。
午後の中頃までにドイツ軍は獲得した地歩を確固たるものにし、すぐに防御陣地の建設に着手しました。予期されたカナダ軍の反撃は、4つの野戦砲兵連隊からの砲撃と共に始まりました。この攻撃では、SSの兵士達は、対戦車砲や近接突撃兵器等の重火器を新たな場所に移動させることができませんでした。カナダ・スコットランド連隊はラ・ベルジュリ(La Bergerie)農場近くの森で集結した後、ピュトー・アン・ベッサンを再奪取する準備を行いました。第1軽騎兵連隊のC中隊とキャメロン・ハイランダーズ・オブ・オタワ連隊からの機関銃班数個が彼らの攻撃に同行することになっており、その攻撃は1930時に開始されました。C中隊とD中隊が移動弾幕射撃の背後を前進し、そのすぐ後ろにA中隊とB中隊が続きました。C中隊の戦車が側面をカバーし、機関銃班が支援します。2130時までにピュトー・アン・ベッサンは再びカナダ軍のものになりましたが、その代償は大きいものでした。カナダ軍は125名の死傷者を出し、それはわずかなものを得るために膨大な損耗を出した第一次世界大戦の戦いのようでした。この日は第Ⅱ大隊もカナダ軍との戦闘で大きな損害を出しました。ピュトー・アン・ベッサンがカナダ軍に再奪取された時点で、第Ⅱ大隊は再編成と新たな命令を受けるために鉄道線の南数百ヤードのところへ後退しました。
カナダ・スコットランド連隊が6月8日の夜中にピュトー・アン・ベッサンを再奪取している間に、第7旅団の戦線の向こう側のブレットヴィル・ロルギュイユーズでは、“Johns”(レジーナ・ライフル連隊)がドイツ軍の反撃を待って緊張状態にありました。というのも、その近辺をいくつかのドイツ軍装甲車両が移動していたからです。しかし実際には、この時点ではドイツ軍の反撃計画はまだ存在していませんでした。クルト・マイヤーは第9旅団は防衛態勢をとっているという正しい情報を入手しており、第26連隊の攻勢を支援するために側面からブレットヴィル・ロルギュイユーズを攻撃できるチャンスが来るまで待っていたのです。彼は第15偵察中隊を街道から引き上げ、2つの装甲中隊と独立自走砲中隊を付け加えた第26連隊の第Ⅰ大隊でブレットヴィル・ロルギュイユーズへの攻撃を再開しようと考えていました。そして、2200時に攻撃が開始されました。しかし、村の中とその周辺から激しい対戦車砲撃に遭い、第26連隊からの増援の不足もあって、マイヤーの攻撃は最終的に6月9日の夜明けに中止となりました。カンプフグルッペのぼろぼろになった残りは、その攻勢発起点であったラ・ヴィルヌーヴ(La Villeneuve)まで退却しました。この戦闘ではノレイ・アン・ベッサンの戦術的重要性が明らかになりました。ブレットヴィル・ロルギュイユーズの攻撃の最後の試みが失敗したのは、ノレイ・アン・ベッサンにいたカナダ軍がブレットヴィル・ロルギュイユーズに向かう第26連隊の移動を妨害したからでした。
その後、2つの攻撃がノレイ・アン・ベッサンを第一目標として計画されました。まず、6月19日1300時に第3装甲中隊と第25連隊の小さな歩兵部隊が東からノレイ・アン・ベッサンに前進しました。この攻撃には第26連隊の第Ⅰ大隊も協力しており、12台のパンターが横並びになって直角にノレイ・アン・ベッサンに進みました。歩兵はパンターのスピードについていけず、大きく遅れを取り、またもや第26連隊のパンターは支援を受けられませんでした。しかもまさにこの時、8台のシャーマン戦車と数台のファイアフライが第1軽騎兵連隊に配属され、フォート・ギャリー・ホース連隊(第10カナダ機甲連隊)のメンバーが乗員となって、さらなる火力支援をJohnsに与えるためにノレイ・アン・ベッサンに向かって前進中だったのです。前進するパンターの晒された側面を見逃すことなく砲弾が撃ち込まれ、7両のドイツ軍戦車が破壊されました。残余はラ・ヴィルヌーヴへ退却しました。
ノレイ・アン・ベッサンを奪取しようとする最後のドイツ軍の試みは、6月10日に実行されました。これまでの戦いに参加していなかった戦闘工兵大隊が、ノレイ・アン・ベッサンでカナダ兵の抵抗を粉砕するために招集されました。夜明け少し前に、その3個中隊がノレイ・アン・ベッサンへ向けて前進しました。しかし、カナダ兵達は準備万端で彼らを待ち受けていました。猛烈な射撃でドイツ軍は一時後退せざるを得ませんでした。砲兵中隊数個の砲兵支援は助けにはならず、1600時までには戦闘工兵大隊は退却を始めました。これが、装甲軍団が共同攻撃するために、必要な足場を得るために連合軍の橋頭堡に対して行われた第12SS装甲師団の最後の試みとなりました。
ノレイ・アン・ベッサンとブレットヴィル・ロルギュイユーズを占領しようとする4回の攻撃はいずれも失敗しました。この2つの村が強力な障壁を形成し、装甲軍団の攻撃計画を妨害していました。砲兵の効果的な火力と強力な対戦車支援と共に、防御するカナダ軍兵士の勇気が大きな役割を演じました。ドイツ兵も勇気に欠けていたわけではなかったのですが、効果的な通信妨害と砲兵支援が第12SS装甲師団の様々な部隊の協調と戦闘力の集中を全て邪魔したのでした。

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