『フィリップ王戦争』のデザイナーズノート
『フィリップ王戦争』は発売前に物議を引き起こし、一歩間違えれば発売禁止になっていたそうです。
フィリップ王戦争の歴史とゲームメカニズム
「この戦争は、イギリスに不利益を数多くもたらしました。約600人が戦死し、そのうち12人は勇敢かつ屈強であり愛国心にあふれた指揮官でした。しかし一方で、教会の者達は家にいて全く問題ありませんでしたし、荒野で彼らの家族を危険に晒すこともありませんでした。
イギリス植民地における住居や食料の損失は15万ポンドにも達しました。1200軒もの家が焼かれ、家畜8000頭が大きいものも小さいものも全て殺され、何千もの小麦、豆、その他の穀物が失われました(そのうちマサチューセッツの損失は3分の1に満たず、大部分はニュー・プリマスとコネチカットのものでした)。インディアン側も男女、子供を合わせて3000人以上が戦死しました。しかし彼らは、友好関係を築いていれば、イギリス人にとって非常に有益でどんな難しい種類の労働でも任せられた仲間になれたと思われます。」
資料:Albert Bushnell Hart編『American History Told by Contemporaries』(New York, 1898), volume 1, 458-60.
上の引用は、植民地法の侵害について調査するためにジェームズ2世によって遣わされた、エドワード・ランドルフ特使による1685年の公式報告書のものです。ここでランドルフは、その損害の大きさについて詳述すると共に、イギリス人の傲慢さと現地人への蔑視がこの衝突の根本にあったのだということを言外に語っています。
イギリス人が最初にニューイングランドに移住した時、この土地はすでに多く強大な部族によって占められていましたが、彼らは近年の疫病の流行で多くの人工を失っていました。イギリス人の存在に不安はあったものの、ワンパノアグ族のマソサイト酋長は、この新参者との同盟が戦略的に有利であると考えました。ここで、ピルグリムの牧歌的な感謝祭の祝宴の伝説に、スクアント【訳注:英語を流暢に話せたワンパノアグ族の人物】が関与してきます。
不安定な協定は、移住者達がヨーロッパから送られてきた物資と豊富なビーバーの毛皮を交換できる間はなんとか続きました。しかし、ビーバーの毛皮が枯渇してくると、植民者達は物資と土地の交換を要求しました。移住者達は現住民達の先祖代々の狩り場に現れるようになり、土地所有の概念のなかった現地民達は白人達が土地を奪って囲いを巡らせたり、彼らが連れてきた家畜が野を荒らすのに怒りを募らせました。
これまででも部族間でのいさかいが、しばしば他部族との抗争をもたらしていましたが、ネイティブ同士の戦争は大規模な殺し合いよりも勇気と名誉を重んじて常に解決されてきました。しかし、現住民達の怒りが燃え上がって暴力にまで至った、イギリス側が言うところの1637年のピクォート戦争で、植民者達は戦争の新たなパラダイムを原住民達に教えることになりました。イギリス人は部族間を欺いて離間させ、ミスティック川のそばあったピクォート砦を大虐殺した上で焼き払い、原住民達にヨーロッパの無慈悲な戦争の概念を見せしめたのです。
部族の酋長達はこのような恐ろしいことが再び起こることを恐れながら、居心地の悪い半世紀を過ごしましたが、その間も両者は緊張を増大させていきました。この時代の記録は全てイギリス側の立場から書かれているため、ピューリタンの意見や先入観に強く影響されてしまっており、ネイティブ側の事情はほとんどわかりません。そのため、この蜂起【訳注:フィリップ王戦争】の真の火種や戦略について多くのことが未解明のままなのでした。
この戦争を起こした、イギリスではフィリップ王の名で知られるワンパノアグ族のメタカム酋長には、激怒するだけの正当な理由がありました。彼の兄はイギリス人達の強制尋問のすぐ後に、謎の病気によって死んでしまったのです。フィリップ自身も何度も何度も法廷へむりやり呼び出され、彼らの部族は土地を失うだけでなく、持っていた銃も奪われました。それに加えて、本来ネイティブの問題であるはずの殺害の件で部族の者達が植民地法廷の裁判にかけられ、絞首刑にされたのです。ここまでされてさえフィリップは平和(非常に危ういものでしたが)を望んでいたのですが、この若き勇者も、もはや部族の者達の憤りを抑えることはできませんでした。以下の2つのことは明らかです。1675年にはフィリップは戦争を始めよう思っていましたが、殺戮する気はなかったこと。そして、彼が周到な準備を完了する前にこの戦争は始まってしまったこと。
このゲームで遊んでみればわかるように、この戦争では戦線は形成されず、4つの白人植民地全てで戦いが吹き荒れました。しかし、甘く見ていた植民地軍は当初、連携も乏しく、移動はゆっくりしたもので、役に立たないヨーロッパの戦術で採用していました。会敵できないため、植民地軍は見せしめにコミュニティーを焼き払うことにし、敵の村々を破壊していきました。ほとんどの植民地は、全ての“インディアン”とその習慣に不信感を抱いていたのです。ネイティブとの同盟やネイティブの戦術を採用したベンジャミン・チャーチのような人物の知恵をイギリス人指導者達が理解して、ようやくこの戦争はイギリス側に有利に傾き始めました。
このゲームで再現されている、この戦争で非常に大きな影響を及ぼしたものはネイティブ・インディアンの食糧供給システムの破壊です。ネイティブ達の多くが戦いを離れていた事実が意味すところは、彼らはそうしなければ食料を手に入れられなかったということなのです。彼らの先祖伝来の土地は植民者達に破壊されており、このことがフィリップと彼の同盟者達にとって破滅的な冬をもたらしました。1676年の春にディアフィールドの北の鮭の産卵場に集まっていたネイティブ達への植民者側の大規模な攻撃は、飢餓に陥っていたネイティブ達の士気を大きく削ぐことになり、それがその夏以降の戦争行動に分裂を招いたと思われます。
このウォーゲームで再現されていない、この戦争のもう一つの暗い側面は、奴隷貿易という残酷な慣習です。この戦争中と戦争後に捕らえられたネイティブ達は奴隷としてカリブ海へ売られていきました。1000人の男女と子供達が船で南へ運ばれましたが、彼らの中にはそもそも戦争に参加していなかった者もいましたし、それどころか、中立の立場であった“祈りを捧げるインディアン(キリスト教への改宗者)”さえもいました。この奴隷貿易はネイティブへの罰、彼らが将来に戦争を起こす力を削ぐこと、そしてこの戦争自体への報いとして植民者達によって正当化されたのでした。
フィリップ王戦争はアメリカ合衆国の教科書ではささいな事柄として扱われていますが、合衆国の歴史に与えた影響は大きなものでした。この戦争は北東地域のネイティブアメリカンの軍事力を摩滅させ、ネイティブと植民者とのその後の関係を方向付けることになりました。フランスはこの反乱を支援し、新世界での関係を悪化させ続けました。そして、最も重要なことは、このフィリップ王戦争はイギリスのより大きな関心を引き、次にアメリカ人の独立戦争をもたらし、最終的にアメリカ合衆国への建国と至るのです。
ネイティブアメリカンの中には、今もってなおこの戦争の傷を生々しく抱き続けている人達がいます。このゲームのデザインが終わる頃に、ロードアイランド州のニュース記事がこのゲームを取り上げましたが、その結果、このゲームはネイティブに対する反感をもたらすと考えたネイティブの抗議団体の怒りを呼ぶことになりました。このゲームの発売禁止を訴えた街頭抗議はさらなる論説記事に飛び火して、それを扱ったAP通信社のニュース記事はアンカレッジ、アラスカ、さらにアラビアやミャンマーにまで配信されました。
ゲームデザイナーはあるラジオトークショーに招かれて、現代のニューイングランドの部族の人達の感情を聞く機会を持つことができ、より深い理解を得ました。ステレオタイプのインディアン像の見方が続くことを恐れる抗議者達は、このゲームの発売を止めようとしました。彼らはこのゲームが彼らの祖先を侮辱し、彼らの文化がニューイングランドからすでに消されてしまったのだという考えを強固にしてしまうものだと考えていたのでした。これ以後、抗議者達の代表者と協議を持つ試みを三度したのですが、マスコミの煽りが話し合いの可能性を阻害してしまったようでした。
このような経緯があっても、このウォーゲームが目指したものは決して変わっていません。それは常に、このほとんど無名でありながら我が国の歴史に極めて大きな影響を与えたこの戦争への知識と興味を増大させる、というものです。この『フィリップ王戦争』を発売するということによって、恐らく我々ーつまりMMP社とネイティブの抗議者達、それに私自身ーは、我が国において原住民の文化が今なお続いていることに理解と知識を増大させることになりました。皆さんもぜひ、さらに様々な文献を紐解いてみて下さい。それはあなたに新しい感慨をもたらすはずです。あなた方がこの戦争やこの時代に関する本を手にとって、より深く正しい理解を持つことを願っています。
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