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2005年10月24日 (月)

ミドルアース定例会レポート

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10月23日の定例会では、、『聯合艦隊』と『エネミー・アッド・ザ・ゲイツ』の他、『オンスロート』、『チカマウガ』などがプレイされました。

『聯合艦隊』はコマンドマガジンにリプレイが収録されるらしく、自称エースさんが「菊水」シナリオで大和を指揮していました。
結果はの問いに、「乞うご期待と言うことで」と教えてもらっていません。

『エネミー~』は、シナリオ3「チル河の戦い」とシナリオ4「スターリングラード救出作戦」のショートシナリオで、OCSのシステムに慣れようと練習に励みます。
写真(左から2枚目)はシナリオ4の開始時のものです。
左下のドイツ軍部隊がスターリングラードに駆け上っていきますが、側面を守る兵力がないので、なかなか難しいです。

あとは、いきなり始まったゲームが2つです。

次回の定例会は11月13日に開催します。

2005年10月23日 (日)

ミドルアース麻雀クラブの活動レポート

22日の土曜日、MMC(ミドルアース麻雀クラブ)が活動しました。
この日の参加者は松山さん、タケタケさん、ヨッシー、そして僕で、吹田市内の関大前のいつもの雀荘で21時開始でした。

この日の僕の結果は、1位、2位、4位、1位となかなかの感じ。
夏の間も毎月していたのですが、僕はまだ負けなしです。
結局、この日の僕は+70で全体の1位でした。

幹事のヨッシーが言うには、12月はみんな忙しいから、11月に2回するそうです。

2005年10月19日 (水)

『コマンド・マガジン第65号』が届きました

(株)国際通信社から「ヨム・キプール」の最新号が届きました。
編集部の皆さん、いつも気を遣ってくれてありがとうございます。
今回はなぜか2冊入っていましたけど、もらっちゃっていいんですかね。

今回の付録ゲームも、宗春先生の手によってきれいになりましたね。
ゲーマーズ社でも絶版になっていたので、よかったんじゃないかなぁ、と思っています。

とりあえず、特集記事でおなかいっぱいになりました。
これからゆっくり残りの記事を読んでいこうと思います。

2005年10月14日 (金)

ミドルアース定例会レポート

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10月9-10日の定例会では、『<Gam>エネミー・アッド・ザ・ゲイツ』の他、『戦国大名』と『日露戦争』、『パス・オブ・グローリー』などがプレイされました。

『日露戦争』は予告通り、自称エース氏とFRTさんの対戦でした。
FRTさんは初めて(?)というのに、自称エース氏はかなり苦戦しているようでした。

『パス・オブ・グローリー』は、宣教師のINBさんと、久しぶりに(しかも突然)やってきたソルジャーのみねさんの対戦です。
トルコが降伏していましたけど、ロシアもえらいことになっていました。

次回の定例会は10月23日に開催します。
来たことのない方でも、奮ってご参加下さい。

2005年10月12日 (水)

『EatG』キャンペーンプレイ(まとめ)

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予告通り、ゲーマーズ社のオペレーショナル・コンバット・シリーズ(OCS)の『エネミー・アット・ザ・ゲイツ』をプレイしました。
セットアップはKMTさんがきちんとトレイに分けてくれていたので、4人がかりで1時間で完了しました。
左から1枚目と2枚目の写真がセットアップ時のものです。
キャンペーンゲームは、シックス・アングルズの『パウルス第6軍』とちょうど同じ時期から始まって、ソ連軍が両翼のルーマニア軍(黄緑色のユニット)を崩壊させて、ドイツ第6軍を包囲するというものです(もちろん、キャンペーンでは、その後もずっと続きますけど…)。

地図盤上の駒数は多いのですが、補給ポイントが回ってこない地域では、ほとんど部隊が動きません。
機械化部隊の移動と全ての部隊の戦闘に補給ポイントが必要ですので、毎ターン活動させる部隊といえば、ドイツ軍で多くても50~60個程度です。
ですので、経験の少ない我々でも、「サクサク進むやん」とか「思ったより楽ですね」という感想でした。

今回のドイツ軍は、早期にスターリングラードを放棄する作戦を採りまして、ドン河沿いに防衛線を構築して、突出してくるソ連軍部隊を次々と撃破しますが、数にまかせて進んでくるソ連軍に対抗できません。
機械化部隊はZOCを無視して移動してきますし、移動モードになると14移動力ありますから、追いかけるドイツ軍も大変なのです。
さらに、このゲームシステム、部隊の練度がモノを言いまして、戦闘時の奇襲判定に敵味方の練度差を修正します。2D6で10+なら攻撃側が、5-なら防御側が奇襲に成功するのですが、その影響はなんと、「1D6コラムシフト」なのです。
とはいえ、戦闘結果表もよくできていまして、ゲームが一気に破綻することはありません。

スタックすると強力で師団単位なら補給ポイントを節約できるのですが、砲爆撃の目標になりやすくなります(砲爆撃結果表で最高4コラムシフトで混乱しやすい)。かといって、バラすと各個撃破されてしまいます(でも、歩兵は4ステップあって頑丈です)。
機械化部隊の移動に対抗するためには、カーペット状に部隊を敷き詰めないといけないのですが、もちろん部隊が足りるわけがありません。ですので、歩兵部隊で戦線を作って、足りないところはパック・ハンド・ブロー用に後方に装甲師団が待機することになります。ただ、だんだんと戦線兵力が削れていくので、それもいつまで持つか…ついう感じで、うまくジレンマを生み出したゲームと言えます。

とりあえず、年内再戦ということで、それまで各自シナリオで修行を積むと言うことになりました。
参戦希望者はいつでもメール下さい。

2005年10月11日 (火)

『クルセイダーレックス』の翻訳その三

たびたびですが、フリードリヒⅠ世(赤髭王)の話です。
わかる方いましたら、検証して下さい。
よろしくお願いします。

Barbarossa’s Crusade
The 67 year-old Frederick Barbarossa had ruled the Holy Roman Empire for almost four decades and was one of the most powerful and respected monarchs of his day. Despite the Emperor’s age and past disputes with the pope, Barbarossa reacted to the debacle at Hattin by rallying 15,000 men and 3,000 knights – the flower of the German nobility – for war in Outremer.
The German army was forced to cut its way through armies fielded by the Byzantine Empire and the Sultanate of Rum, and it did so with fearful effect. Saladin was so alarmed that he called-off his campaign against Tyre and Tripoli and dismantled castles and city walls as far south as Ascalon to deny Barbarossa’s army any comfort or supply. In an amazing twist of fate, however, Barbarossa drowned while crossing a river near Tarsus on June 10, 1190. Internal dissension quickly broke out, and when the army finally managed to stagger into Antioch, an epidemic swept the city – a final blow that convinced all but a few thousand Germans to return back from whence they came. By October 1190, the remaining Germans led by Leopold of Austria reached Acre and provided King Guy with meager reinforcements for his depleted army.
Saladin had been spared from fighting a formidable foe. In Crusader Rex, he may not be so lucky.

赤髭王(バルバロッサ)の十字軍
享年67歳のフリードリヒⅠ世(赤髭王)は、約40年にわたって神聖ローマ帝国を統治した、最も強力で絶対的な支配者として君臨しています。諸侯やローマ教皇との確執にもかかわらず、赤髭王は十字軍の戦争では、15,000名の兵と3,000名の騎士を再集結させて、ハッティンの大敗北の後、軍を建て直しました。
ドイツ軍はビザンティン帝国とスルタンの軍隊によって連絡路を遮断されました。その効果は絶大で、サラディンは、赤髭王がTyreとToriporiへの遠征を取りやめてAscalonより南の城塞と町の壁を焦土作戦で全て破壊したことを非常に警戒していました。しかし、驚くことに、赤髭王は1190年6月10日にアナトリアのセレフ河で溺れ死んでしまったのです。すぐに内部崩壊が始まり、兵がどうにかアンティオキアへ帰った時には疫病が流行しました-数千名のドイツ人が帰国を余儀なくされ、10月にはオーストリアのレオポルドに率いられたドイツ軍はAcreに到着し、ギー王の軍隊と合流したのでした。
サラディンは侮りがたい敵と戦うことは避けることができました。しかし、『クルセイダーレックス』では、彼は史実ほど幸運ではないのです。

2005年10月10日 (月)

『クルセイダーレックス』の翻訳その二

前回と同様、背景がよくわからないもので、以下の訳文が正しいかどうか、どなたか検証して頂きたく思います。
全文じゃなくても結構ですので。
特に固有名詞の発音をお願いします。

Saladin & The Ayyubid Empire
Salah al-Din Yusuf ibn-Ayyub (shortened by the Franks as “Saladin”) was a Kurd born into high places. His father was the Governor of Tikrit in modern day Iraq, and a shrewd political advisor to both Zangi and Nur al-Din. His father’s brother – Shirkuh – was a veteran general of the Zangid Sultanate and commander of Nur al-Din’s military expedition in 1164 against Fatmid (Shiite) Egypt. The young Saladin joined his uncle on this bloody but successful conquest.
When Shirkuh died of illness in 1169, the 31 year-old Saladin inherited control of Egypt.
Tensions gradually rose between Saladin and his nominal lord in Damascus. Open war between the two loomed, but Nur al-Din died from an untimely illness in 1174. Saladin quickly marched an army into Damascus and seized power from the regency governing in the name of Nur al-Din’s 11 year-old son, al-Salih. Civil war ensued, but Zangid loyalists were no match for Saladin’s political savvy or military strength.
By 1186, Saladin controlled Egypt, Syria, most of the old County of Edessa, and all important city-states of Mesopotamia except Baghdad.
Saladin had a mixed reputation among his Islamic contemporaries. Many lionized him as a wise and compassionate ruler, a deeply devout Sunni Muslim, and the greatest hero in Arab history. Nearly as many, however, disparaged him as a cynical opportunist and power-hungry usurper more bent on war against fellow Muslims than the Crusader kingdoms.
The 3rd Crusade was called by Pope Gregory VIII in 1187 after Saladin defeated a Christian army at Hattin (near Tiberias) and then seized the entire Kingdom of Jerusalem except Tyre.

サラディンとアイユーブ朝
 サラーフ・アッディーン・ユースフ・イブン・アイユーブ(「サラディン」として知られる)は、クルド人の地位の高い家系の生まれです。彼の父は 現在のイラクにあるティクリートの総督で、ザンギーとヌル・アッディーンに洞察の深い意見を具申していました。彼の叔父-シルクフ-はザンギー朝の将軍で、1164年のヌル・アッディーンによる対シーア派のエジプト遠征における司令官でした。若いサラディンもこの叔父と一緒に従軍しました。シルクフは1169年に病死した時、31歳のサラディンはエジプトの統治を継承します。
 しかし、サラディンとダマスカスの領主との間に緊張が芽生え始めます。この2つの勢力は争いますが、結局、ヌール・アッディーンは1174年に病死してしまいます。これを聞いたサラディンは、直ちにダマスカスに入城して勢力を平定し、11歳になるヌール・アッディーンの息子アル・サリフの名の下に宰相政治を始めました。内戦は続きますが、ザンギー朝の擁護派はサラディンの政治的手腕と軍事力を受け入れることはありませんでした。1186年になると、サラディンはエジプト、シリア、エデッサ伯国の大部分、そしてバグダッドを除くメソポタミアの主要都市を全て支配していました。
 サラディンの評価は、当時のイスラム世界では大きく分かれます。大多数は、サラディンは賢明で寛容な統治者であり、非常に敬虔なスンニ派のムスリム、そしてアラブ史上最高の英雄だと考えています。しかし、一方では、シニカルな日和見主義者で、十字軍よりも同志ムスリムとの戦争に明け暮れ、権力の簒奪者と評価されています。
 第3回十字軍は、キリスト教軍隊がハッティン(ティベリア近郊)でサラディンに敗れた後、1187年にグレゴリウスVIII世の呼びかけによって行われ、レバノンを除くエルサレム王国を掌握したのでした。

2005年10月 8日 (土)

『クルセイダーレックス』の翻訳

このゲームのテーマは第3回十字軍です。

1189年~1192年。1187年に「イスラムの英雄」サラーフッディーン(サラディン)により、およそ90年ぶりにエルサレムがイスラム側に占領された。教皇グレゴリウス8世は聖地奪還のための十字軍を呼びかけ、イングランドの獅子心王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世が参加した。フリードリヒ1世は1190年にキリキアで溺死し、あとを継いだイングランドとフランスの十字軍が1191年にアッコンを奪還した。その後フィリップ2世は帰国し、リチャード1世がサラーフッディーンと休戦協定を結んだことで聖地エルサレムの奪還は失敗に終わった。(アッコンを確保したことでエルサレム巡礼の自由は保障された)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


『ハンマー・オブ・ザ・スコッツ』や『リバティ』と、だいたい同じ感じのルールですが、背景がよくわからないもので、以下の訳文が正しいかどうか、どなたか検証して頂きたく思います。
日本語ルールは一昨日から着手して、すでに半分以上終わっていまして、今日の夕方には完成する予定です。

Fragile Alliances
Both the Franks and the Saracens had to contend with internal tensions that threatened to rip their forces apart.
Saladin’s hold on power was tenuous. He faced external threats from emirs in Turkey, Armenia,and Baghdad. Egypt and Iraq smoldered with sedition and vanquished Zangi loyalists had to be watched carefully.
Outremer was a seething cauldron of intrigue and tension. King Guy was bitterly opposed by the Hospitallers, Count Raymond of Tripoli,and Baldwin’s widow Maria Comnena, a princess of the Byzantium Empire – all of whom thought the new king a weak interloper. After the disaster at Hattin, for which King Guy was responsible, internecine conflict continued with Conrad of Montferrat – who wanted the crown for himself.
The Crusaders were also at each other’s throat. Richard’s last-minute rejection of Philip’s sister as his bride (because she had been the mistress of his father, Henry II) so soured relations that the French King spent only four months in Palestine before sailing home to plot the seizure of Richard's extensive holdings in Normandy,Anjou, and Aquitaine. Three times thereafter the French army under the Duke of Burgundy abandoned the field and twice the French refused to fight – once in September 1191 when Richard proposed invasion of Egypt and again in June 1192 when Richard proposed a final march on Jerusalem.

不安定な関係
フランク王国とサラセン帝国は、常に不在中の国内問題を抱えていました。
サラディンは統治基盤は脆弱でした。トルコやアルメニア、バグダッドの首長と対立しており、エジプトとイラクにも不穏な空気が漂っていました。さらにはザンギー朝擁護派を常に見張っていなければならなかったのです。
アウトリーマーは、陰謀と対立の煮えたぎる大釜でした。ガイ王は騎士団やトリポリのレイモンド伯爵、ボールドウィンの未亡人マリア・カムネナ、ビザンティン帝国の女王などと対立し、彼らは新しい王は弱々しいもぐり商人だと揶揄しました。ハッティンの大事件の後、ガイ王は責任を問われてモンフェラーのコンラードと争いが続きます--彼はガイ王の地位を狙っていたのです。
とはいえ、十字軍も同じような状態でした。フィリップの親族によるリチャードへの強い抵抗によって(彼女は父であるヘンリーII世の愛人だったため)、このリチャードI世とフィリップII世の中は非常に気まずい関係でした。そして、このフランス王は4ヶ月だけパレスチナに留まり、リチャードの持つノルマンディやアンジュー地方、アキテーヌ盆地の広大な領地の奪い取ろうと画策していたのでした。その後、3回にわたってバーガンディ公爵は領地を失い、フランスは2回にわたって戦闘を避けました--最初は1191年9月のリチャードがエジプト侵攻を計画していた時、二度目は1192年6月のリチャードがエルサレムへ最後の侵攻作戦を計画していた時です。

2005年10月 6日 (木)

『リバティ』のエラッタ?

どこにアップしようかと迷った挙げ句、ここにしました。
今後は、同様の質問等はここにアップするようにしようかと思いますが、皆さんいかがでしょう?
写真や画像を入れられるので、説明しやすいかな、と思っています。

さて、コロンビアゲームズ社『リバティ』ですが、北海道の熱心なお客様から質問が届きました。
ありがとうございました。

6.2 アメリカ軍の配置
「~民兵ユニットは敵ユニットがいない友軍の赤の補給都市にのみ配置できます。」
→「~民兵ユニットは敵ユニットがいない友軍の青の補給都市にのみ配置できます。」

英文ルールにも「Red」と書いてありますが、アメリカ軍の色は青なので、やはり青が正解かと。
先程、コロンビアゲームズ社にもメールを送りました。
おそらく、メーカーから回答があると思います。

2005年10月 4日 (火)

問屋の年末受注会

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昨日は商品の搬入と懇親会がありまして、今日は午前8時40分に新大阪のセンイシティ展示場に集合でした。
この年末受注会、100社以上が出展して、300社以上の問屋や小売店が買い付けに来るという業者向けイベントです。
今、ようやく終わりまして、近くのカフェでピールを飲んで一服しています。
小野さんの迎えの車が今ちょうどやっと来ました。

今日は16回目の結婚記念日なので、休日にしようと思っていたのですが、「商品を説明できる人がいないので必ず来てほしい」と、問屋から要望がありまして、しかたなく行ってきました。
ロフトや東急ハンズはじめ、デパート、電気店などのホビー担当者がたくさん来ている中、いろいろな顔ぶれと出会いました。

ヨジバシカメラ梅田店の担当者が、実はウチの社員のたもつ君と昔一緒にゲームをしていた仲だったり、福井県からいつも通販で買ってくれているお客様が某社の営業部長としてやってきたりと、なかなか楽しめる一日でした。

とりあえず、ヨドバシカメラ梅田店にはアウト・オブ・ザ・ボックス社のゲームと『戦国大名』、『聯合艦隊』が並ぶようです。

2005年10月 2日 (日)

中部方面隊の創隊45周年記念行事

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伊丹駐屯地で行われたイベントに家族で行ってきました。
陸上自衛隊員の弟は、今ここにいます。
仕事で徹夜明けだったので、眠かったです…。

この日行われた式典と模擬戦は、当然のことながら信太山駐屯地のものよりスケールアップしていて、74式戦車と155mm榴弾砲が気前よくバンバン発砲していました。
運よく、招待客用の観覧席から見ることができたので、正面から、その距離約50m。
今津駐屯地の第3戦車大隊所属の74式戦車105mm砲から、発砲のたびに轟音と衝撃波が襲ってきました。
74式戦車、そろそろ退役するものも出始めているらしいので、この姿を見られるのも、もうわずかかもしれませんね。
唯一残念なのは、大好きなAH-1Sが登場しなかったこと。
この前の事故の影響でしょうか。
ヘリコプターはOH-1(観測ヘリ)とレンジャーのUH-1だけでした。

ちなみに、この日は74式戦車の体験試乗や、イラクに派遣されていた火器(84mm無反動砲を担いでいる人なんかもいました)や車輌(61式戦車でした)の展示も行われていました。

2005年10月 1日 (土)

小野宅でゲームしているらしい…

現在19時、NPO法人アナログゲーム・アソシエーションの総会が始まろうとしています。
小野さんも出席予定だったのですが、所用により今、帰っていきました。

事情を聞くと、小野さん、明日の日曜日にやまさんと鉄人デグさんと自宅でゲームをする予定だったそうな。
ところが小野さん、明日は娘さんの運動会ということをすっかり忘れており、予定を繰り上げて、急遽、今からゲームをすることになったそうです。
それでもゲームするのか、キミたちは…。

「運動会?バックれちゃいましょうよ」(←やまさんの悪魔の囁き。よい子はマネをしないように)

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